供述心理学研究所・埼玉

子どもの供述・障がい者の供述



(1)問題は嘘をつけるかどうかではない

 事実認定に供述が用いられるためには,その供述が信頼に足るものである必要があります。供述分析はそのような信頼性のレベルを,さまざまな心理学的知見を活用しつつ探るのですが,そこでしばしば問題になることとして,「子どもの証言はどこまで信用できるか」とか,「知的障がい者についてはどうか」ということがあります。

 法心理学の領域でもこの問題はさまざまに検討が続いており,イギリスやアメリカでは子どもの司法面接の為の特別のシステム作りも行われています。日本では北大の仲真紀子さんがこの問題に精力的に取り組み続けています。

 (参考文献)

  アルドリッジ・ウッド 2004 仲真紀子訳 
  子どもの面接法
     :司法手続きにおける子どものケアガイド
  法と心理学叢書 北大路書房 

 子どもや知的障がい者の供述で問題になることは「嘘をつくことができるか」ということではありません。系統発生的に言えばすでにチンパンジーの段階で,相手の認識内容を想定・理解した上で,自らの利益のためにその裏をかく行動を相手に対して示す(誤った理解を意図的に相手に対して与える),という明らかな嘘の行動が繰り返し確認されます。私の子どもは1歳のときにはもうそうも解釈できそうな行動をしていましたが,子どもや知的障がい者が嘘をつくことがあるのは当然のことです。(そのことを考えると,甲山事件で供述をした知的障がい児が「体験は報告できるが,嘘はつけない能力レベル」だと検察側から主張されたことは実に奇妙です)

 従って嘘については子どもも大人も基本的には共通した視点から考えることが可能です。けれども,嘘をつくかどうかということとは別に,嘘をつく意図はなくてもその言うことに信頼性があるかどうかは問題になります。


(2)子どもの不思議な「記憶」

 ひとつ実例を見ていただきましょう。これは私たちが甲山事件に関連しておこなったシミュレーション実験のデータの一部ですが,タカちゃんという人物がどういう人物かについて,絵で説明されることを求めて,子どもたちはこんな絵を描いています。


 ここに掲載した絵ではD男もF子もスカートをはいています。では実際のタカちゃんはどうだったかというと,次の写真(左)のような格好でした。

                    

  

 スカートは履いておらずズボンで,およそそう間違われるような格好でもありません。さらに興味深いことがあります。タカちゃんを目の前にして子どもにその絵を描いてもらったらどうなるか,というものですが,その一例です。マウスのポインターを上の写真に重ねてみてください。見ながら書いているにもかかわらず,その絵は全く同じで,スカートを履いています。

 このような子どもの供述を聞いて,聴取の中間段階で聴取者がまとめたのが右側の絵になります。子どもの供述内容からすれば,無理のない当然の結果と言えるでしょう。

 なぜこのような不思議なことが起こるのでしょうか。「子どもの言うことはあてにならない」という一般的な否定で済ませることはできません。そこにはある心理学的に合理的なメカニズムがあります。

(3)認知システムからの説明

 この点では複数のレベルで説明が可能です。まず第一に,記憶の本性からの説明では次のようになります。記憶は刺激をそのまま脳内にストックするわけではなく,すでに網膜の段階から生理学的なシステムに依存して初歩的な分析や情報の統合が行われ,たとえば輪郭線の強調といった加工が進みます。さらに中枢では奥行や物の重なりなどの分析も進み,形や動きなどを合わせて刺激布置の特定範囲を一つの対象として浮かび上がらせるとともに,既有知識との照合関係も進み,「見たものが何であるか」を判定する知覚判断が行われます。

 この既有知識は個別の具体的感覚情報ではなく,むしろ感覚情報を統合的に処理するための一般性を持つ枠組み(シェマあるいはスキーマとも言いますし,一種のソフトという言い方の方が分りやすいかもしれません)としてストックされるものですから,その都度の個別の具体的情報は,その枠組みに適合しやすい形で取捨選択,加工処理される運命にあります。

 従って,タカちゃん=女性=スカートをはいている,という形で情報処理が進み,記憶が成立する場合には,このような間違いは特に不思議でも何でもありません。似たような記憶違いは大人でも普通に生じます。

(4)「表現」という問題

 ただし,この理解だけでは説明がつかないのは,目の前にモデルを持ちながらも同じような間違いが生じるという点でしょう。そのような間違いは大人ではまず起こりません。その問題を理解するには,「表現」という行為について考える必要があります。

 子どもが大人の求めに応じてタカちゃんの絵を描くことは,「大人の意図」を理解し,それに応答するというコミュニケーション行為になります。そこで描かれる絵は他者に対する「表現」行為なのだという言い方も可能です。

 子どもの描画については,従来,「子どもは見たものを描くのではなく,理解したものを描くのだ」という説明の仕方がありました。これは分りやすい説明ではありますが,必ずしも正確とは言えません。なぜなら理解したものを描くというのは大人でも基本的に同じだからです。

(5)見たものを描くむつかしさ

 たとえば遠近法の成立過程を見てみればそれは明らかです。私たちの視覚は眼球の構造に依存し,遠くにあるものは小さく網膜上に投影され,その見えはちいさくなるようにできています。ところがその感覚情報は中枢でさまざまに加工処理され,小さなものでも「本当に小さい」とは判断せず,「遠くにあるから小さく見えるだけで本当は同じ大きさだ」という理解をほとんど無意識的に成立させる仕組みを私たちの心理システムは持っています。

 ですから,そのように理解された世界を表現すれば,遠近法は成り立たず,遠くにあるものでも同じような大きさに描かれることになります。対象との距離を強調すべき場合には,一種の記号として小さく描く場合はありえますが,それもまた「見たまま」の表現ではなく,距離に関する理解の表現にすぎません。

 この心理学的な枠組みは非常に強力であるため,「見たとおりに遠近を描く」ということは困難を極め,木枠に糸で格子を作り出し,それを手掛かりに対象間の関係を糸による座標系を用いて物理的に確定し,絵に写し取るような,そんな矯正をして初めて見たとおりの遠近を写し取る手法としての遠近法を確立していったわけです。

(6)世界の理解とその共有の仕方のズレ

 そのように「見たものではなく,理解したものを描く」ということは,子どもに限らず普遍的な心理現象ですから,この実験で見られた大人の描画とのズレは,実際には「理解したもの」の内容の違いを反映しており,さらに言えば描画を通して他者とどのような理解を共有すべきなのか,というコミュニケーション文脈の理解構造の違いを表していると考えるべきです。

 少し言葉を換えると,描画を通してどのように世界を理解し,他者と共有しようとするかに応じて,その描画の表現法が変ってきます。その構造が大人と子どもでは異なるために,子どもは大人が意図するような表現を行わず(または行えず),描画の「過ち」が発生したと考えられるわけです。

 ではどのような世界理解の構造的な差異がそこに存在しているか,ということ,そしてそのような差異が存在する時に,どのようなディスコミュニケーション事態が発生し,そこから何が生み出されていくかが検討の対象となり,実際問題としても,研究上の理論的問題としても大変に興味深い領域となりますが,この点についてご興味をお持ちの方は以下の文献などをご参照ください。


 (参考文献)
  山本登志哉 2001
  虚偽事実の無意図的な共同生成と証言者の年齢特性
     :幼児と大人の語り合いはどうすれ違うか
  法と心理学 1(1) 102-115