「真意」の推定
民事事件でも,遺産相続などをめぐり,故人の発言の「真意」が問題になる場合があります。しかし,「真意」はその人の「内面」の事実で,外から直接には観察できないものであり,さらには本人が意図的にその「真意」を隠そうとすることもありますから,その判定は極めて困難だ,というような見方が割合一般でではないでしょうか。さらに哲学的な厳密さで問えば,そもそも「真意」というものが存在するといえるかどうかも重大な問題となります。
科学としての心理学は「黙って座ればぴたりと当たる」という安易な占い行為とは異なりますから,そういう「真意」についても,何らかの根拠に基づいて,可能な限り合理的に推定するという作業を行います。
また実際の裁判では「真意」についても,裁判官の自由心証による往々にして直観的で全体的な証拠評価が,トップダウン的に行われます。そして裁判官が第一印象に引きずられるせいか,ステレオタイプ的な結論に合わせた,証拠の「つまみ食い」とも言えるような疑問の判決も時折見られます。
これに対して供述心理学的な分析では,心理学的な知見を取り込んで,細部にもこだわるより分析的で,ステレオタイプ化しないボトムアップ式の推論を積み重ねることを重視します。そのような作業を通し,「可能な限り証拠に基づく分析的・合理的な推論」を追及し,裁判に対してより妥当な証拠評価を行うための基礎資料の提供を行います。
供述心理学的鑑定は,そのような姿勢を持って分析を行いますが,「真意」というものを直接的に断定的に判定することは上記のように原理的に困難または不可能であるため,とてもむつかしい作業であることは間違いありません。その方法論上の困難を回避するため,どのような工夫で分析を進めるか,その一例をここでご紹介します。(今後さまざまな手法の開発が必要な分野でもあります)
たとえばある会話記録が残されているとします。そこではある人が「私はAを望んでいる」という主張を行っていることが確認されます。果たしてそれは当時の本人の「真意」を表していたかどうか,が争われる場合に,どのような分析が可能でしょうか。
ここで「真意を語っている」ということを直接に確定することは通常困難で,せいぜいが「真に迫っている語り方で,作り事とは思えない」というような,漠然とした印象で判断せざるを得ないことが多くあります。
しかし,次のように視点を切り替えてみると,より分析的な推論が可能になり,「真意を語っている」という判断の妥当性をかなり絞り込める場合があります。それは事態をいわば裏側から検討するもので,「真意を語れないコミュニケーションの要素が見出されるかどうか」という点の分析を行うのです。
まず,単発の発言ではなく,ある程度の流れを持つ会話であれば,まずその流れを分析することで,やりとりが自然な流れを持つ展開であるか,示される見解が二転三転したり,了解困難な議論が行われたり,といった不自然さが見出される展開であるかということが,ある程度の根拠を持って判定できる場合があります。
仮にそこに不自然さが見出される場合は,何らかの意味で真意の表明が妨げられている可能性が出てきます。その場合はその不自然さの原因を推定する作業が必要になり,真意を表明しているのだけれどもそれをめぐるやりとりに何らかの困難が生じているのか,当人の真意それ自体に何らかの混乱があり,当人も確定が困難である結果なのか,あるいは真意が隠されたやりとりなのかが推定されることになります。
逆に自然さが見出される場合は,真意の表明が妨げられていない可能性が高まりますが,しかし発言者が上手に嘘をついている場合(虚言)や,聴き手が上手に誘導して真意を語らせないようにしている場合も否定はできません。
そこで,次に発言者の発話が「事実を共有しようとする誠実なコミュニケーションスタイルに基づいている」かどうか,また発言者の迎合性があったり,聞き手に誘導的な聞き方があったりしないかどうかを分析していきます。この分析により,「事実を共有できないスタイルのコミュニケーション(虚言の可能性)」や迎合性,誘導性が否定されたとすれば,消去法によってそのコミュニケーションは「真意を表明することが妨げられにくい」コミュニケーションであった可能性が高くなります。
このような分析によって,誤って「この発言は当時の真意を表明したものである」と判断してしまう危険性を減らすことができ,そのことによって間接的に「真意を表明した」という判断の妥当性を高めることができます。あくまで確率の問題を超えられませんが,このような分析によって,単なる直観による判断よりは,妥当性の高い推定がおこなわれやすくなるのです。